挨拶
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2008年01月31日

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part14

<14>
●反対牧師の登場
 
 七月に入ったある日のこと、マンションに禿げた頭の中年の男性が訪問してきた。私は一見して、高校の社会の先生かなにかのような印象を受けた。たれ目と度の強そうな眼鏡、短い眉毛などから、パンダかアライグマを連想させられた。手には、黒いナイロンの手提げ袋をもっている。何か分厚い本が入っているらしい。
 その男性は家族と目配せをしたり、上から下まで私をじろじろ見たりした。家族は、私を壊れ物でも扱うように心配げに見ている。私は、周囲の雰囲気からこれが反対牧師だと直感し、緊張した。
 これが日本同盟キリスト教団所属、新津福音教会の松永牧師だった。私はそれまで、その牧師のことは何も知らなかったが、後で聞いたところによると、優秀なディプログラマーであり、全国から・相談・を請け負っているとのことだった。
 私は、その時「やっぱり家族は最初から牧師と相談の上やっていたのだ……」と思い、改めてショックを受けた。それまで家族は、私に対して「反対牧師には連絡していない」と説明していたのだ。後で家族が話して来たところによると、家族は監禁を始める二年も前から、家族全員が松永牧師の主催する、父兄会なるものに参加し、さまざまな講習を受けていたのだ。
 
松永氏が「どうですか」と言いながら机に座ると、すこしオーバーな素振りで私を見た。その態度には「負けるものか」というプライドのようなものがにじみ出ているように感じられた。手に持っていたナイロン袋を開けると、中に入っていたのは『原理講論』だった。
 私が「『原理講論』はよく読まれるんですか」と聞くと、松永氏は「……まあ、君達よりは、詳しいよ」と答えた。さらに私が「最初にお聞きしますが、あなたは統一教会に反対する立場の人ですか」と聞くと、松永氏は「……それは、言えない」と言いにくそうに言った。それから雑談が続いた。
 松永氏は、くせのある話し方で、得意になって話すときには少し口を突き出すようにする。少し話した感じでは、性格的に一癖も二癖もある、面白いおじさんである、という印象を受けた。
 松永氏は二、三の資料を「読んでおくように」と言って帰って行った。
●ノックの音
 ちなみに、松永牧師はノックの音も他の人と違うので、すぐに判別することができた。監禁されていた期間、私はノックの音だけで誰が来たのか大体見当がついた。
 これは、長い間閉鎖空間に閉じこめられて、精神が敏感な状態になっていたことと、とにかく周囲には何もないので、ノックの音一つにも相当興味が行ったためだろう。
 マンションではドアを開けるための合図も決められていて、いつも「コンコンコン、コンコンコン、コンコンコン」と、3掛ける3回ノックしていた。モールス信号の「SOS」と同じである。このノック一つとってみても、それぞれの心理が現されているようで、興味深かった。
 大抵の脱会者は、少し遠慮がちな音で、「まあ、聞こえなかったら、それでもいいや」というような感じである。
 家族のノックはせわしない感じである。「早く開けて。誰か来るといけないから」という追いつめられた気持ちがにじみ出ているように思われた。
 これらに比べて、松永氏のノックは音が乾いた感じで、一つひとつゆっくり区切るようである。また、最初の間隔に較べ、終わりの方はいつも少し遅めになる。私は、このノック一つにも松永氏の「負けるものか」「文句あるか!」という自己主張がくみ取れるように思った。

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part13

<13>
 依然として脱出の機会が見つからないまま監禁されて、二十日近くが経過した。
 私は、血でメッセージを書く作戦を思いつく。何かのすきを突いて、窓の外に投げるチャンスがあるかも知れない。まず、そーっとゴミ箱の中から手のひらぐらいの大きさの紙を拾う。当然、監禁場所に刃物などを置いてあるはずがない。それでとがった針金を見つけだした。
 トイレに入って靴下を下げ、思い切って足首のあたりを針金で何度かガリガリと引っかくと、血がにじみ出た。それを指に付けて「カンキン・たすけて」と書く。
 外に出られるチャンスを待ちつつ、この血文字をポケットに隠し持っていた。しかし、偽装脱会のメドがついた時点で、見つかるとかえってまずいので、トイレに流して処分してしまった。今思うと、記録として残しておけなかったのが残念だ。
 六月末、父親がノートと筆記用具の入ったカバンを返してくれた。今度は窓に張り紙をする方法を思いついた。
 七月一日の朝、目が覚めると、隣の部屋では父の古い知り合いが二、三訪ねてきて、父と話し込んでいる様子だ。私のいる部屋のふすまは閉まっているが、話に夢中で私のことはあまり意識をしていないように思われた。
 他の脱出に成功した人の話によれば、監禁現場では本人の行動を二十四時間監視するため、ふすまを全部取り外すこともあるそうだ。また、トイレにまでついてくる親もいると聞く。私の場合、親はそこまではしなかった。
 親としては、子供への心配と不信とが入り交じった心境で、四六時中、子供を監視するということが異常だと感じていながら、自分でもどうしようもないのだろう。
 私は、音を立てないように気をつけながら、ノートの一ページに一文字ずつ「監」「禁」「助」「け」「て」と書き、原理研究会の連絡先もあわせて書いた。隣の部屋の者たちはまだ気づいていないらしい。
 …………

 以前怪我をしたとき、家族からもらった治療用のテープがある。私はメッセージを書いたノートをテープでつなぎ合わせ、外から見えるように窓の内側に貼り付けた。
 もちろん、こんなことをしても外との連絡が取れる可能性はほとんどないことは分かっている。私としては、これで脱出のための努力にケジメをつけたかったのである。

 家族に暴力を振るって出ることなど、私にはとてもできない。だから、外部と連絡を取って、救出を待つという方法がダメなら、手っ取り早く反対派の人間に会って、彼らの言いたいことを聞いてやる以外に道はない。
 こう例えると、何か傲慢なように聞こえるかも知れないが、イエス・キリストはゲッセマネで、「十字架を避ける道はないのか」と祈られ、それが不可能だと悟られてからは、神のみ旨として、進んで十字架の道を選ばれた。私自身もそうありたいと思ったのである。
 すぐに張り紙は見つかり、はがされてしまった。隣の部屋で寝ていた誰かがこちらの気配に感づいたらしい。父たちは良心の呵責があるからか、私が張り紙をしたことを責めようとはしない。このとき、私は物理的な脱出を完全にあきらめた。以後も脱出のための努力は一切することはなかった。
 父がまた「牧師さんを呼ぶが、英雄は会っても構わないか」と尋ねてきた。私は「呼びたいなら、呼べばいいんじゃないの」と半ばうんざりして答えた。父は「英雄の気持ちが大事だから……」と口をもごもごさせている。結局、私は積極的な気持ちではなく、「(父に何度も聞かれて)面倒だ」という気持ちから、牧師に会うことを承諾した。翌日、松永牧師と対面することになるのである。
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