挨拶
統一教会員への拉致・監禁被害 をご覧いただきありがとうございます。 
 このサイトは統一教会員への信教を理由とした拉致・監禁・人権被害者支援、擁護、情報の提供、共有を目的として製作しました。

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2008年04月23日

世界平和統一家庭連合の新会長に文亨進様が就任

世界平和統一家庭連合世界会長及び韓国会長の就任式がありまして、文亨進様が新しく就任されました。

*文亨進任略歴です。
1979年9月26日:真の父母様家庭の七番目の息子としてアメリカニューヨーク州ウェストチェスター(発音:ウェチェスター)で誕生
1997年9月6日:777家庭李スンデ・ジュウンジョン家庭の李妍雅様と聖婚し4男1女を持たれる
2000年7月:ノンプロフィット教育諮問機関ターニングポイントオブライフ(Tuning point of Life)設立
2000年10月28日:1次7年路程出発(亨進任午前3時精誠と共に21年路程出発)
2003年5月13日:真の父母様が亨進任家庭訪問、「天和堂天愛夫婦」の揮毫を下さる
2004年6月:ハーバード大学(哲学専攻)卒業
2005〜2006年:世界聖地巡礼(イタリアローマ、インドのダラムサルラのチベット亡命政府、中国、台湾、日本、フィリピンなどの宗教聖地を訪問、ダライラマ、法頂(ポプジャン)スニムなど世界的な宗教指導者と会う)
2005年8〜11月:アメリカニューヨーク統一神学大学院(UTS)で5回にわたって「天和堂修練」主観
2006年6:ハーバード神学大学院(比較宗教学専攻)卒業
2006年9月1〜8日:1万2千拜天正宮特別精誠
2006年9月11〜2007年1月12日:清平清心神学大学院で「天一国民修練会」主管
2006年10月28:1次7年路程終わり
2006年10月29日:2次7年路程出発
2007年1月19日:天一教育院設立
2007年3月〜:毎月定期的に日本教会訪問(現在まで11地区42教区訪問)
2007年8月5〜2007年11月25日:ソウル麻浦教会、天一国食口礼拜主管
2007年10月17日:第1次120日精誠出発(「真の父母様の世界攝理勝利と教会成長の為に」)
2007年12月1日:本部教会堂会長就任
2008年2月15日:第2次120日精誠出発(「全世界食口のために」)
2007年12月〜:本部教会で天一国食口礼拜主観
2008年4月18日:世界平和統一家庭連合世界会長兼韓国会長就任
著書:「はげ頭といちご」、「瞬間」、「天和堂」

詳細はこちらにあります。
■家庭連合世界会長及び韓国会長、離・就任式
(韓国家庭聯合ウェブサイトより)
http://docs.google.com/View?docid=ddprmknb_500cgpr3rgz
韓国家庭聯合ウェブサイト
http://www.tongil.or.kr/

※ 文先生は旧字体を利用されるので、旧字体で表記されることがあります。
※ 韓国では世界基督教統一神霊協会改め、世界平和統一家庭連合の名称を利用しています。

2008年04月18日

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part24

●私の「切り札」
 
偽装脱会が気付かれ、二度目のマンションに移ってから、険悪な数日が過ぎた。数日後、ふだん一番よく来てくれる脱会者のAさんがやってきた。
 偽装脱会が気付かれたばかりで、会話もぎこちなかった。Aさんが「どうしたんですか」と聞いて来た。私が「いや、ちょっといろいろあって」ともごもご答えた。
 A「一体なぜ、統一教会側に連絡を取ろうとしたんですか」
 私「統一教会も信用できないが、あなたたちも信用できないんです」
 A「じゃあ、どうしたら信用してもらえるんですか」
 私「あなたたちは何かにつけ、ぼくに隠そうとするでしょう。ぼく、普通の人より疑い深いんで、いろいろ気付くんですよね」
 ここで少し間をおき、こちらの切り札をぶつけた。少し失礼なので、この切り札はできれば使いたくなかった。
 私が「ところで、Aさんが入ってたマンションはどれっくらいの広さだったんですか?ここよりも広いですか」と聞くと、Aさんはうろたえた。「いや…ちょっとわからない。ここと同じぐらいかな。……もうちょっと広かったかも」。
 要するに、私が聞いたのは「ここは、あなたが監禁を受けていた、まさにその場所ではないんですか?」ということである。私は、普段のAさんとの会話に照らしあわせて、ここにAさんが監禁されていた、という手ごたえを掴んでいた。Aさんの反応で、それが正しいことが確認できた。
 そもそも、監禁場所を確保するのはそんなに簡単ではない。深夜まで怒鳴り声などが絶えず、不審な人物が出入りする。勝手に改造するし、使用目的もいつまで使うかも不明。だから、一人の反対牧師が確保している監禁場所は、そんなに多いとは考えられない。ということは、訪問して来る脱会者の中に、まさにその場所で監禁されていた「先輩」が含まれている可能性は、非常に高いのである。
 反対派は、組織的な犯罪色が目立つので、監禁場所を使い廻していることなどは隠そうとするが、この点で反対派は、本人に対して負い目を持っている。ここで私はこの点を突いて、この監禁は結局、私を「救う」ために行なっているのではなく、反対運動の一環にすぎないのではないか、私を統一教会への反対活動に利用しているにすぎない、と指摘したのである。私がこうした条件を握っているためか、これ以降反対派は私に、いろいろな情報を提供するようにと強く言わないようになった。しかしそれは同時に、脱会者たちに「自分は偽り者である」と自分に対して情けない思いをさせることにもなる。
 会話がそそくさと終わり、Aさんは上の空で、目もくれず帰った。しかし相当動揺したらしく、いったんカバンを忘れてまた取りに戻った。
 私は本当に気の毒に思った。
 私の監禁中、Aさんが何十回もマンションを訪ね、いろいろと尽くしてくれたのは事実である。あの何倍も尽くしてもらっていたら、私は脱会を真剣に考えたかも知れない。
 しかし敢えてAさんの欠点を言うなら、Aさんは主体性が欠けたいわゆる八方美人の性格で、周囲によく思われることばかり気にし、結局全てのことにおいて不満をため込んでしまうタイプである。そして今、Aさんは、反対派の言うことを信じ、こうやって反対運動に参加しているが、このままAさんは、自分の人生を振り返って、結局自分の人生は他人に利用されてばかりだった、とさらに恨みを持つ時がくるのではないか。
 私は、反対派は間違っていると思った。物事には引き際というものがある。この時すでに私は反対派の脱会プログラムを一通り消化した立場だった。反対派に私の信仰を奪うことができないのは、もうハッキリしていた。建て前であっても、その上で「脱会する」と本人が言ったなら、ここで監禁はすみやかに打ち切るべきだったのである。ずるずると監禁を引き延ばすと、周囲も私も、言わずに済むことを言いい合わなくてはならなくなり、かえって全員がどんどん傷ついていくのである。Aさんも、そういった反対派の勝手な都合のために傷つく人間の一人なのだ。

2008年04月17日

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part23

●脱会者らの追及
 
二度目のマンションは、新潟市亀田本町のアルベール本町B七〇三号室である。ベランダの窓には、また特殊な鍵が取り付けてあった。数ヶ月人が住んでおらず、換気もされなかったため、カビ臭かった。置いてあるのは、冷蔵庫、非常食、ビールの空きケース、ベニヤ板ぐらいだった。ビールのケースは、上にベニヤ板を置いて、テーブルとして使うために置いてある。非常食の日付から、四月ぐらいまでこのマンションを使っていたことが分かった。布団も、何カ月か洗濯もせずおいておかれたものが一組しかなかった。
 新しいマンションに移って数日間は、家族全員が恐ろしい目つきで私を監視し、二十四時間、やることなすこと全てに目を付けられた。
 数日後、脱会者が例の如く二人連れだってマンションにやってきた。一人が「あれ、マンション移ったんですね。どうしたんですか」ととぼけた顔で聞いてきた。しかし、彼はつい先日、私がマンションを移されるときに監視役をしていたのを私は覚えていた。私は、何度も訪問を受け、彼らと談笑した経緯があり、彼らとももう他人ではない気持ちでいた。しかし、彼らが裏と表を使い分けている姿を見て、結局彼らは反対派の枠から出ることができないのだ、と寂しく感じた。
 そして会話が進むにつれ、脱会者は「まさか、今でもあの文鮮明を信じてるんですか!何でですか!」とどんどん口調が険しくなった。彼らは茶化した感じで、恨みを込めた口調で、「あの、プン、チェンメェを?」と言うのだった。しまいに家族と脱会者は目をつり上げ、「なぜ連絡しようとしたのか!周囲の真心を踏みにじるのか!」と詰問してきた。私が「僕がなにか不法行為をおこなったとでも言うんですか!手紙にどんな文面を入れようが、誰に送ろうが、個人の自由だ!」と大声で言い返すと、周囲は言葉につまり、一瞬シンとした。
 これは、民主主義というものに照らして全くの正論である。反論のしようがない。
 要するに、反対派は、私が原理研究会に連絡を取ろうとするだけで、閉じこめて責めたてるのである。
 彼らは、いつのまにか、自分達が踏み越えてはいけないラインを踏み越え、人権侵害をしていることに改めて気づかされた、という雰囲気だった。
 私は少し痛快な思いがした。なぜなら、私は全く犯罪を犯していなかったからである。
 実はひそかに私がねらっていたのもここだった。反対派の「切り札」は、すでにここで出尽くしていた。これまでで信仰が奪えなかったのなら、はっきり言ってこれ以降も私の信仰を奪うことはできない。これ以上監禁を続けていると、逆に反対派はどんどん犯罪を重ねる結果になる。
 私が思うに、反対派は、監禁された当人が反対派の敷いたレール通り動くあいだは何も言わないが、一旦レールから外れそうになると、露骨に本人の意志をねじ曲げてくる。脱会者が「親子の話し合いで、自由意志に基づいてやめました」と言うのは、要するに、本人の意志がうまく反対派のレールに沿って進んだので、犯罪性が目につかなかっただけの話なのである。結局、監禁の本質は親子の話し合いなどではなく、反対派による恐ろしい人権侵害、強制改宗なのだ。

●私の「反撃」
 それから後、あまり脱会者たちが顔を見せなくなってきた。
 数日後、松永牧師がやって来た。いろいろと身の上話を語り、「家族でもっと話しあうように」と言い残して帰っていった。再び数日後、松永牧師がやって来て、「統一教会がどんなに悪であるか。その団体の情報を漏らそうとしないこと自体、悪なのだ」と強く主張し、「霊の親と霊の子の名前は?」「大学名は?」「学部は?」「帰省先は?」など、詰問してノートに書き留め始めた。
 私はここでさらなる切り札をぶつけた。「やっぱりあなた達は嘘をつきましたね」と言うと、「どういう意味だ」と松永氏が聞き返して来る。「だって、一番最初にF君に聞いたら、・霊の子とかの情報は聞いて来たりしない。各自が、自分の意志で救いたいと思う人の名前を挙げて松永先生にお願いするんだ・って言ってましたよ。要するに、ぼくを利用しようとしているんですね」と不信に満ちた口調で私が言うと、それまでトゲトゲしかった松永氏の口調が急になだめるような調子に変わった。「ヒデオくん、君は何か勘違いをしているよ。我々は、頼まれてここに来ているだけで、言ったことに責任はない。誰も強制なんて、してないんだよ」。これまで言いたい放題言っておいて、身勝手な話もあったものである。これ以降はさすがに松永氏も、私からいろいろな情報を聞き出そうとはしなくなった。

2008年04月16日

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part22

●二度目のマンションへ
 八月二〇日。この日は監禁中で最も記憶に残る日となった。
 この日、かねてより松永牧師が予定していた、ジャーナリスト有田芳生氏の新潟講演が行われた。松永牧師からは「ヒデオ君も聞きに来ますか」と聞かれたが、私は、今日あたり原理研究会から誰かが迎えにくるかもしれない、と思って断った。
 その日の午後、父親に「散歩に行くか」と聞かれたが、これも断った。ところが、誰かが訪ねてきたが、控え室でごそごそと話をしているのが聞こえた。この控え室には、私は立ち入りを禁じられていた。
 夕方ごろ、父が私に「このマンションの家主の都合で、出ていかないといけなくなった」と言ってきた。いかにもウソをついている、というような、落ちつかないそぶりである。父はウソが下手である。どういう形でかは分からないが、原理研究会に向けたメッセージが父にバレたらしいと直感した。
 私が「どうして急に移らないといけないの。拒否権はないの」と聞くと「仕方がないじゃないか。急な都合だって言うんだから」と言った。
 そして、むりやり脱会者H君の車に乗せられ、二度目のマンションに移動させられた。
 他の帰還者から聞いた話では、松永牧師は、自分の教会の近郊に、いわゆる取り巻きの父兄の協力を得て、二十ヵ所ぐらい監禁用のマンションをキープしているとのことだった。装脱会がバレたわずか数時間後に、次の監禁場所へ移動できたのは、こうした「取り巻き」のバックアップがあったからだったのだ。私の家族が後でぽつりぽつり話してきたことには、「新規の父兄」は、まずこの取り巻きの父兄が週末に開いている「講習会」に参加する。そこでは毎回数十人の「新規の父兄」に対して監禁のやり方が熱心に指導される。監禁を「勝利」した家族の体験談が何度も繰り返し語られ、話は監禁の予行練習から具体的な謝礼にまで及ぶのだそうだ。あるとき、その会話にたまりかねた父親が、その席上で「どうしてマンションに閉じ込めないといけないんですか?私の息子はそんな人間ではない」と言うと、中心的な父兄から「あなたは何もわかっていないんだ!」「保護(監禁のこと)をしないのは親ではない!」とものすごい勢いで詰め寄られ、監禁を決意するようになっていったのだそうである。
 二度目のマンションは、新潟市亀田本町にあるアルベール本町のB七〇三号室である。
 ベランダの窓には、また例の如く鍵がかけられている。私が「どういうこと?」と聞くと、すぐさま家族が私を責めたて始めた。そこで父が断片的に話してきたことによると、父が一人で外を歩いているとき、昨日行った床屋の主人が偶然父に気付き、私の置いてきた腕時計を父に返してしまった。このことから、私が偽装脱会らしいと発覚した。すでに原理研究会の方にも電話連絡が入っていたため、松永牧師と・相談・の上、その日のうちに別のマンションへ移動することになったのである。
 父親は、怒りのため赤鬼のような顔をしていた。私を見るときは、突き刺さるような目つきを私に向けた。私はふと「このまま殺されるかも知れない」と思った。あの錐のような目つきは、私の心に強く焼き付いている。
 私は、家族の恐ろしい目線を感じながら、となりの部屋へ行き、寝転がった。ふすまを閉めようとしたが、ふすまは父が持って動かそうとしなかった。
 特に、悔いはなかった。私は逃げるために連絡を取ったのではないからである。内部情報をもらしたくなかったのである。信仰を失うのではないか、という根本的な不安はなかった。
 夜遅く犬が吠えていたのを覚えている。七階なのに、犬の吠える声はきちんと届くんだな、と妙なところに感心していた。なかなか寝付かれなかった。

2008年04月15日

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part21

●脱会宣言、踏み絵
 
 「脱会する」という言葉を言うのにも、キッカケがいる。なぜなら、家族は反対派の言うとおりに従っている。反対派が親に対して「息子さんはやめましたよ」「次はリハビリです」という指示を与えない限り、家族は何をどうしていいかも分からないのである。
 七月二十三日、Kさんという女性と、N君、Y君という三人の脱会者がやって来た。
 彼らは、これまで私と会話する中で「川嶋君はもう間違いに気づいている」と判断していた。そのことを私も知っていた。Kさんは、今度は家族が問題だという話を始めた。家族の側に、まだ反省が足りないと言うのである。Kさんは、監禁されるのがどんなに傷つくか、また脱会したからといって幸せになるわけではないこと、ある意味では本人の幸せを無理矢理奪ったことになるということなどを私の家族に説明した。そして、「たとえ本人が統一教会の間違いに気づいていても、家族の方が自分を押しつけていたら、本人はいつまでたっても統一教会をやめようという気持ちにはなりません。本人が可哀想なだけです。お父さんの方からあやまらないと、川嶋君はいつまでもやめるとは言いませんよ」と言って帰っていった。
 その後私は父親と二人きりになり、「脱会する」と告げた。「もう傷ついているから放って置いて欲しい」。「そうか……」と父が答え、一すじ、二すじ、父の頬を涙が伝った。家族には父親から伝えてもらった。家族も一応信じ、これでようやく監禁は、一段落ついた雰囲気になった。
 しかし、まだ踏み絵が残っていた。反対派はハッキリ本人が拒否しない限り、どんどん利用しようとしてくる。もともとこの監禁は「間違いに気づくまで」と言われて始まったのだが、「気付いた」後も、終わる様子はなかった。
 私「もう統一教会はやめるのに、どうして」
 父「まだいろいろとやることがある」
 私「どんな」
 父「ヒデオ自身のこれからのこととか、家族のこととか……」
 私「じゃ、早く話し合おうよ」
 父「いや、牧師さんに聞かないと」
 そして松永牧師に改まって聞くと「どうして私にそんなことを聞くんですか」とはぐらかされる。ところが裏では、牧師のもとで共同生活をしながら反対・説得活動に加わる、という流れになっているのだ。
 さらに一週間、二週間とうやむやな時期が過ぎた。このころからテレビを少しずつ見始めるようになった。
 次第に焦燥感に駆られた。
 私「まだ何か隠してるでしょう」
 父「いまヒデオに言うと怒るから、後で伝える」
 私「何を隠してるの」
 父「言えない」
 そのうち、松永氏に、ノートに献金額、原理研究会のメンバーの名前などをなるべく詳しくまとめるように、と宿題を出された。踏み絵として、私にさらなる監禁のための情報を与えるように、というのである。
 
八月十五日頃、脱会書を書いた。脱会書は父親と松永牧師が検閲した後、投函された。監禁場所が分からないよう、一旦別の封筒に入れて富山県の親戚へ送り、そこから改めて投函してもらうという手段をとった。ここで、隙を見て脱会書の封筒に細工をした。小さな紙に監禁場所、牧師名などを記し、封筒の中に貼り付けた。……この時、「助けて」を「救けて」と書き間違えてしまい、後で気づいて恥ずかしく思った。その時は、簡単な漢字の間違いにも気づけないぐらい消耗していたのである。

●初めての外出
 八月十八日、脱会者を通じて牧師のOKが伝えられ、監禁以来初めて外へ出て外食した。
 八月十九日、「これからよく外へ出るから」ということで、父と二人で床屋へ行った。ここで、腕時計の裏にシールを貼り、原理研究会の連絡先を書いておき、トイレに置いておいた。ところが翌日、これが親にバレてしまい、さらなる波紋を呼ぶことになった。
 実を言うと、この時点で脱会プログラムは一通り終わっており、私はこの人達が、私の信仰を奪うことはできない、という手ごたえを持っていた。だから、あえて原理研究会に連絡をとる必要はなかった。しかし、反対派に原理研究会のメンバーの名前を知らせれば、必ず監禁に利用するに違いなかった。私には、そんな真似はできなかった。偽装脱会がバレてしまう可能性を考えないわけではなかったが、なんとか、情報を漏らす前に監禁を終わらせようと思い、あえて危険を犯したのである。
 そして八月二〇日。この日は監禁中で最も記憶に残る日となった。
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