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2008年04月07日

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part17

●離教の理由
 
 私はマンションにいる期間、いろいろな脱会者に、離教する決定的な決め手となった理由を聞いてみた。しかし、具体的に聞いてみると「夢を見た」とか「心情関係が希薄だった」とか、どうしてこんな理由でやめるのかと首をかしげたくなるような、つまらないことが多かった。
 脱会者たちは、なぜ「離教したのか」よりは、「なぜ信じるようになったのか」ということの方に関心が行くようだった。
 おそらく、大多数の離教者は、自分がなぜ離教したのかを説明できないのではないのか、という風に感じられた。
 脱会者たちは、統一教会に対する様々な悪いウワサをなんとなく信じ込んでいるようだった。しかし、その一つひとつに対して、「きちんと確かめたのか」「本当に統一教会の人間がそんなことをすると思うのか」と聞いていくと、相手は言葉をにごしたり、感情的になって言い返してくることが多かった。
 そして、ひとつの話をしても、突き詰めようとするより、どんどん会話がシフトしていくという感じである。
 ある話題に関して、私が突き詰めていくと「人間というのはなかなか自分の過ちを認めたがらないものだからね」と、何度も言われた。まるで、私がその場で屁理屈を言って言い逃れをしているだけなのだと言わんばかりである。しかし、私に言わせれば、その一つ一つをおろそかにしていて、どうしてきちんと確かめられるのだろうか。一つひとつが大事なのに、どうしていい加減にすませるのだろうか。逆に彼らは、自分が離教した理由をはっきり言って、それを否定されるのが嫌なのではないだろうか。
 また、ある脱会者の女性は、「イエス様は、ロバにのってエルサレムに入ったのよ。それなのに、統一教会の教祖は外車に乗っているじゃないの。そんなの、なんだか違う気がする。頭の中でイメージが重ならないわ」と真面目に言ってきた。なんという閉鎖的な考えに染まっているのか、と私は驚いたが、本人は本当に思っていることを率直に言っているらしかった。
 ある脱会者の話だが、その人は信仰を持っていた当時、霊が見えたり、祈っている時に聖霊体験をしたことがあったそうだ。しかし、監禁されて「マインド・コントロール理論」を聞かされ、「カルトの特徴」というものを何度も聞かされるうちに、「私は本当に“カルト”に入っているのだろうか」と恐くなってしまった、とのことだった。こうして、神や霊界に対する確信をぼかし、これまでの霊体験や神との出会いをすべて「思いこみだった」と思わせてしまうのは、反対派の常套手段だと言える。
 また、反対派は、考え方の幼い人に対しては、本人の個人的動機と、統一原理の目指す内容とのズレを引き出して、なぜ自分が統一教会の信仰を続けなければならないのかを分からなくさせてしまう。
 
例えば、ある女性の脱会者は「家族関係を良くしたいと思って教会に入ったのに、教会に入って、かえって家族関係が悪くなった」と言っていた。この人は監禁されて「バカだな。家族関係が悪いんだったら、家族に直接不満なところを訴えて、治してもらえばいいじゃないか」と言われ、「確かにその通りだ」と思って離教したのだそうだ。これは反対派のペースにまんまと乗せられてしまった良い例であると思う。ここには論理のすり替えがある。彼女は、家庭関係を修復するためだけに信仰を持ったのではないはずである。統一教会が目指しているのは、神を中心とした、より正しい家族関係であり、人類全体の救いであるはずである。彼女は、いつの間にか大事なことを忘れてしまったのではないだろうか。
 私は、統一原理でも説いている通り、魂とは永遠性を持ったものだと信じている。たとえ現実にどんな困難があるにしても、そこで真理を見失って間違った選択をしてしまったら、永遠に悔いを残すことになる、と私は思う。
 結局、離教の理由としては、監禁される中で大勢の脱会者に触れ、「監禁を受けると、みんな離れてしまうのだ。ということは原理は間違っているのだ」と思って、離れてしまう部分が非常に大きいと言える。では、なぜ牧師が監禁をするのか。それは、監禁すれば必ず離教させられる、と思っているからである。要するに、悪循環がどんどん繰り返されているのである。
 ただ、確実に言えることとして、異常な環境下に長い間一人で「隔離」されていると、たいていの人は自我を追い込まれ、その結果、信仰を持つようになった自分自身まで不信してしまう。
 反対派は、脱会者たちの説得活動を「リハビリ」と呼んでいるが、これは脱会者が自分への自信を取り戻し、「やっぱり統一教会は間違っているのだ」「やめた自分は正しいのだ」と自分に言い聞かせていく作業なのだ、と言うことができる。
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