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2008年02月17日

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part16

●「反対派の理論批判」

 私が接した限りでは、松永氏の統一原理に対する批判には、様々な矛盾があった。
 例えば、ある訪問の際の会話は次のようである。
 松永氏が、「創世記はモーセのころに口伝が集められて出来たのだ」という話をしてきた。要するに、聖書は人間の創作に過ぎない、という主張である。
 私は、ふだん聖書絶対と言っている人間がこんなことを言いだしたのに、非常に驚いた。
 松永氏は、それより何日か前、詩編を例にあげて、・神の偉大さは人間には計り知れない。人間は管理者に過ぎない・という話をしたばかりである。
 松永牧師の頭の中では、”啓示説“と”創作説“がごちゃまぜになっているらしい。
 そして、松永氏は、創世記にあるエバを誘惑した「蛇」は、単なる獣であり、サタンではなく単なる蛇だったのだ、という話をしてきた。
 私が「でも、この聖書の脚注には、”ヘブライ語では、この蛇には定冠詞が付けられており、サタンを示すことは明らかである“と書いてありますよ」と言うと、松永牧師は「なに!」と目を剥き、「……それは、脚注の方が間違っているよ。これは擬人法なんだ」と言いだした。
 私が、「”擬人法“とは、ロゴスでない単なる音などを、ロゴスとして捉える、その感性を指して言った言葉です。この場合のように”食べなさい“というはっきりしたロゴスをロゴスとして受け取っている時は、”擬人法“とは言いません」と突っ込むと、「いいや、これは心の中に日々生ずる思いについて、物語として語られていたものが、書物としてまとめられただけなんだ」と言ってきた。そして「要するに、聖書にはいろんな解釈が可能なんだよ」と話を結んだ。
 要するに、松永氏にとってはこの場で原理が間違いであると言えさえすれば何でもいいらしい。
 
次に、統一教会の救いの概念の話になった。
 私が「客観的に考えて、全人類がキリスト教の救いを被っていないという事実は、明らかではないですか」と説明した。しかし、松永氏は「聖書では救いが完全だと言っているじゃないか!」と繰り返すばかりであった。
 
また話が変わり、私が「統一原理には、唯一神、創造神、そしてキリスト教に欠けている心情の神という明確な観点がありますよ」と言うと、松永氏は「唯一神、創造神を説くのは、キリスト教だけだ!唯一神、創造神だと聖書に書いてあるじゃないか!」と遮ってきた。
 唯一神・創造神だと聖書に書いてあると、なぜ唯一神・創造神を説くのはキリスト教だけであるという結論が出るのか、いつの間に統一原理が聖書と対立していることにされてしまったのか、など詳しく説明してほしかったが、何の説明もなかった。
 松永氏は、ただただ私の揚げ足をとってやりこめようとするばかりで、とても学術的な会話ができるような雰囲気ではなかった。私はもう面倒くさくなって、話すのをやめてしまった。そして最後に一言、松永氏が「私の話が分からないのは、君が原理の眼鏡をかけて物事を見ているからだ」と言ってきた。これが今日の結論だ、と言わんばかりである。
 
私はこの松永氏の話を聞きながら、あるたとえ話を思い出した。
 首輪でつながれた犬が、自由になろうとしてもがいていた。ある時、その犬は何を思ったか地面に穴を掘り、自分を繋いでいる鎖を埋めてしまった。その犬は鎖が見えないから自分は自由になったと思いこみ、喜んで駆け出そうとした。しかし、そのとたん鎖に首を引っ張られて転んでしまった。……私には、松永氏の姿が、このたとえ話の犬の姿と同じであるように、感じられて仕方がなかった。
 
私には、このようないい加減な言い方しかできない人間が、他人数カ月も閉じこめて説得をすること自体が許せない思いである。
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