挨拶
統一教会員への拉致・監禁被害 をご覧いただきありがとうございます。 
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2008年04月16日

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part22

●二度目のマンションへ
 八月二〇日。この日は監禁中で最も記憶に残る日となった。
 この日、かねてより松永牧師が予定していた、ジャーナリスト有田芳生氏の新潟講演が行われた。松永牧師からは「ヒデオ君も聞きに来ますか」と聞かれたが、私は、今日あたり原理研究会から誰かが迎えにくるかもしれない、と思って断った。
 その日の午後、父親に「散歩に行くか」と聞かれたが、これも断った。ところが、誰かが訪ねてきたが、控え室でごそごそと話をしているのが聞こえた。この控え室には、私は立ち入りを禁じられていた。
 夕方ごろ、父が私に「このマンションの家主の都合で、出ていかないといけなくなった」と言ってきた。いかにもウソをついている、というような、落ちつかないそぶりである。父はウソが下手である。どういう形でかは分からないが、原理研究会に向けたメッセージが父にバレたらしいと直感した。
 私が「どうして急に移らないといけないの。拒否権はないの」と聞くと「仕方がないじゃないか。急な都合だって言うんだから」と言った。
 そして、むりやり脱会者H君の車に乗せられ、二度目のマンションに移動させられた。
 他の帰還者から聞いた話では、松永牧師は、自分の教会の近郊に、いわゆる取り巻きの父兄の協力を得て、二十ヵ所ぐらい監禁用のマンションをキープしているとのことだった。装脱会がバレたわずか数時間後に、次の監禁場所へ移動できたのは、こうした「取り巻き」のバックアップがあったからだったのだ。私の家族が後でぽつりぽつり話してきたことには、「新規の父兄」は、まずこの取り巻きの父兄が週末に開いている「講習会」に参加する。そこでは毎回数十人の「新規の父兄」に対して監禁のやり方が熱心に指導される。監禁を「勝利」した家族の体験談が何度も繰り返し語られ、話は監禁の予行練習から具体的な謝礼にまで及ぶのだそうだ。あるとき、その会話にたまりかねた父親が、その席上で「どうしてマンションに閉じ込めないといけないんですか?私の息子はそんな人間ではない」と言うと、中心的な父兄から「あなたは何もわかっていないんだ!」「保護(監禁のこと)をしないのは親ではない!」とものすごい勢いで詰め寄られ、監禁を決意するようになっていったのだそうである。
 二度目のマンションは、新潟市亀田本町にあるアルベール本町のB七〇三号室である。
 ベランダの窓には、また例の如く鍵がかけられている。私が「どういうこと?」と聞くと、すぐさま家族が私を責めたて始めた。そこで父が断片的に話してきたことによると、父が一人で外を歩いているとき、昨日行った床屋の主人が偶然父に気付き、私の置いてきた腕時計を父に返してしまった。このことから、私が偽装脱会らしいと発覚した。すでに原理研究会の方にも電話連絡が入っていたため、松永牧師と・相談・の上、その日のうちに別のマンションへ移動することになったのである。
 父親は、怒りのため赤鬼のような顔をしていた。私を見るときは、突き刺さるような目つきを私に向けた。私はふと「このまま殺されるかも知れない」と思った。あの錐のような目つきは、私の心に強く焼き付いている。
 私は、家族の恐ろしい目線を感じながら、となりの部屋へ行き、寝転がった。ふすまを閉めようとしたが、ふすまは父が持って動かそうとしなかった。
 特に、悔いはなかった。私は逃げるために連絡を取ったのではないからである。内部情報をもらしたくなかったのである。信仰を失うのではないか、という根本的な不安はなかった。
 夜遅く犬が吠えていたのを覚えている。七階なのに、犬の吠える声はきちんと届くんだな、と妙なところに感心していた。なかなか寝付かれなかった。

2008年04月15日

知られざるら致・監禁の現実 ロイヤルコーポ505号室 Part21

●脱会宣言、踏み絵
 
 「脱会する」という言葉を言うのにも、キッカケがいる。なぜなら、家族は反対派の言うとおりに従っている。反対派が親に対して「息子さんはやめましたよ」「次はリハビリです」という指示を与えない限り、家族は何をどうしていいかも分からないのである。
 七月二十三日、Kさんという女性と、N君、Y君という三人の脱会者がやって来た。
 彼らは、これまで私と会話する中で「川嶋君はもう間違いに気づいている」と判断していた。そのことを私も知っていた。Kさんは、今度は家族が問題だという話を始めた。家族の側に、まだ反省が足りないと言うのである。Kさんは、監禁されるのがどんなに傷つくか、また脱会したからといって幸せになるわけではないこと、ある意味では本人の幸せを無理矢理奪ったことになるということなどを私の家族に説明した。そして、「たとえ本人が統一教会の間違いに気づいていても、家族の方が自分を押しつけていたら、本人はいつまでたっても統一教会をやめようという気持ちにはなりません。本人が可哀想なだけです。お父さんの方からあやまらないと、川嶋君はいつまでもやめるとは言いませんよ」と言って帰っていった。
 その後私は父親と二人きりになり、「脱会する」と告げた。「もう傷ついているから放って置いて欲しい」。「そうか……」と父が答え、一すじ、二すじ、父の頬を涙が伝った。家族には父親から伝えてもらった。家族も一応信じ、これでようやく監禁は、一段落ついた雰囲気になった。
 しかし、まだ踏み絵が残っていた。反対派はハッキリ本人が拒否しない限り、どんどん利用しようとしてくる。もともとこの監禁は「間違いに気づくまで」と言われて始まったのだが、「気付いた」後も、終わる様子はなかった。
 私「もう統一教会はやめるのに、どうして」
 父「まだいろいろとやることがある」
 私「どんな」
 父「ヒデオ自身のこれからのこととか、家族のこととか……」
 私「じゃ、早く話し合おうよ」
 父「いや、牧師さんに聞かないと」
 そして松永牧師に改まって聞くと「どうして私にそんなことを聞くんですか」とはぐらかされる。ところが裏では、牧師のもとで共同生活をしながら反対・説得活動に加わる、という流れになっているのだ。
 さらに一週間、二週間とうやむやな時期が過ぎた。このころからテレビを少しずつ見始めるようになった。
 次第に焦燥感に駆られた。
 私「まだ何か隠してるでしょう」
 父「いまヒデオに言うと怒るから、後で伝える」
 私「何を隠してるの」
 父「言えない」
 そのうち、松永氏に、ノートに献金額、原理研究会のメンバーの名前などをなるべく詳しくまとめるように、と宿題を出された。踏み絵として、私にさらなる監禁のための情報を与えるように、というのである。
 
八月十五日頃、脱会書を書いた。脱会書は父親と松永牧師が検閲した後、投函された。監禁場所が分からないよう、一旦別の封筒に入れて富山県の親戚へ送り、そこから改めて投函してもらうという手段をとった。ここで、隙を見て脱会書の封筒に細工をした。小さな紙に監禁場所、牧師名などを記し、封筒の中に貼り付けた。……この時、「助けて」を「救けて」と書き間違えてしまい、後で気づいて恥ずかしく思った。その時は、簡単な漢字の間違いにも気づけないぐらい消耗していたのである。

●初めての外出
 八月十八日、脱会者を通じて牧師のOKが伝えられ、監禁以来初めて外へ出て外食した。
 八月十九日、「これからよく外へ出るから」ということで、父と二人で床屋へ行った。ここで、腕時計の裏にシールを貼り、原理研究会の連絡先を書いておき、トイレに置いておいた。ところが翌日、これが親にバレてしまい、さらなる波紋を呼ぶことになった。
 実を言うと、この時点で脱会プログラムは一通り終わっており、私はこの人達が、私の信仰を奪うことはできない、という手ごたえを持っていた。だから、あえて原理研究会に連絡をとる必要はなかった。しかし、反対派に原理研究会のメンバーの名前を知らせれば、必ず監禁に利用するに違いなかった。私には、そんな真似はできなかった。偽装脱会がバレてしまう可能性を考えないわけではなかったが、なんとか、情報を漏らす前に監禁を終わらせようと思い、あえて危険を犯したのである。
 そして八月二〇日。この日は監禁中で最も記憶に残る日となった。
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